日本における木材利用の歴史

日本人は積極的に木材を利用してきましたが、一方では、過度な伐採による森林の荒廃と再生を繰り返してきました。

日本における木材利用の歴史

島弧となっている細長い日本列島は、平野部を除いて地形は急峻、河川は短く急勾配であり、しかも地質はもろくなっています。さらに、降雨は、梅雨期や台風期に集中する傾向にあるため、気象災害が起こりやすい環境にあります。降雨時には、地表が削られ土砂が大量に流出したり、山崩れやがけ崩れなどにより森林が消失することも少なくありません。また、私たちはこれまで、木材を得るために、過度の伐採を行った結果、森林の荒廃もしばしば起こりました。

このような環境のもとで暮らしてきた先人たちは、森林の荒廃や消失に悩まされながら、森林を守り再生させることの重要性を理解し、そのための努力を続けてきました。 今もなお、日本の国土の7割近くが、森林として維持され、先進国の中でも有数の森林国となっているのは、森林の生育に適した気候や開発困難な急峻な地形といった自然条件に加え、こうした先人たちの努力があったからでしょう。

日本の森林は荒廃と再生の繰り返し

日本の森林は荒廃と再生の繰り返しであった


このページの目次

  1. 森林と人間とのかかわり
  2. 縄文時代の木材利用
  3. 弥生時代の木材利用
  4. 住居や大型建築物
  5. 燃料など
  6. 近世都市の発達と木材利用
  7. 江戸時代の木材利用
  8. 植林の歴史
  9. 明治~近代化時代の木材利用
  10. 第2次世界大戦~高度経済成長期の木材利用

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森林と人間とのかかわり

私たち日本人は、長い歴史の間、森林とそこから得られる木材と密接にかかわりながら生活してきました。先人たちは、道具や日用品、住居や燃料等、木材を様々な用途に使ってきました。しかも、用途に応じて樹種を使い分け、木材の特性を巧みに活かし、利用してきました。

木材だけでなく、うるし、樹皮、竹材、下草や落葉、落枝なども同じように暮らしの中で利用してきました。また、きのこ類、木の実、山菜などの食糧も森林から得て生活してきました。

日本人は森林に恵まれた環境の中で、「森の文化」を育むとともに、木を積極的に使いながら「木の文化」を育んできたのです。


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縄文時代の木材利用

縄文時代のイラスト

縄文時代の日本列島では、人々が狩猟や漁労、採集により生活していました。 石斧(おの)による樹木の伐採や木材の加工が行われ、 木材の柱を立てた竪穴式住居が用いられ、 水上の移動には丸木舟が使われていたと考えられています。 もちろん、土器を製作するための燃料にも木材が使われていました。 このような当時の様子は、遺跡からの出土品等から知ることができます。

例えば、縄文時代中期の大規模集落とされる青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺跡からは、多数の住居跡が発見され、クリが建材として、また、クリやクルミの堅果は食料として利用されていたことが明らかになりました。 地中に残された花粉を調査すると、重要な食料であったクリを栽培していたと推定されています。

また、同じ縄文時代の遺跡である鳥浜貝塚(福井県)等から出土する木製品をみると、水に強く加工しやすいスギの丸木舟、きめの細かなトチノキの鉢や盆のように、用途に応じて樹種が選択されていたことがわかりました。縄文時代の人たちは、樹種による木材の特性の違いを認識し、適切に使い分けられていたことがわかります。中には表面に漆が塗られた木の器や櫛もみられ、樹脂による木材の耐久性を高める技術も知られていたと推察されます。

特筆すべきは、三内丸山遺跡や鳥浜貝塚での出土品の年代幅が広く、極めて長期にわたって大規模な集落が継続していたとみられることです。集落の中心には木材を使った祭祀用の施設も建造していました。三内丸山遺跡では、紀元前3500年頃から、一つの集落がおよそ1500年間もの間、連続して存在したと考えられています。このように、縄文時代には、森林や木材と上手にかかわりながら、安定した生活が営まれていたことをうかがい知ることができます。縄文時代には、森を大きく傷つけることはなく、人々は森の恵みを持続的に活用し、自然と共生した「持続可能な社会」が展開されていたといえるでしょう。農耕の始まりを研究したジャレド・ダイアモンド氏は日本の縄文時代を「森を利用したもっとも豊かな狩猟採集民族文明」と評価しています。


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弥生時代の木材利用

弥生時代に入って本格的に普及し始めた水稲の栽培には、鋤(すき)、鍬(くわ)、田下駄(たげた)等の農具、水田の畦(あぜ)やかんがい用の水路を造るための矢板等にスギなどの木材が多く利用されていました。

また、水田による稲作には、豊富な水が必要となりますが、各地に水田が広がっていくにつれ、安定的に水を得られるのは、森林の貯水機能によるもので、森林の存在が重要であることは、経験を通じ認識が深まっていったと考えられます。さらに、水田の生産力を保つため、森林や原野の落葉や草を有機質肥料として利用するようにもなっていきました。

弥生時代は、用水確保のために集団生活が必要であり、集落が発達し、稲作農耕社会が成立しました。その結果、集落や農地の開発による森林の消失が起こり始めるとともに、食料以外の資源は燃料も含めてほとんどが林産物であったため、集落の周りの森林の劣化も始まったといわれています。


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住居や大型建築物

弥生時代には、住居は、森林の近くよりも水稲栽培を行う平地に造られるようになりました。遺跡からは、住居跡のほか高床式の倉庫とみられる遺構も見られ、通気性の高い校倉(あぜくら)が採用されており、木材の加工技術も高度になっていったことが推察されます。

7世紀の飛鳥時代になると、大和地方を中心に寺院や宮殿など大規模な木造建築物が多く建造されるようになりました。現存する世界最古の木造建築物である法隆寺や世界最大級の木造建築である東大寺大仏殿は、当時の建築技術の高さを示しています。

しかし、こうした寺院の建築や藤原京(694年遷都)、平城京(710年遷都)の造営や寺院建築など、大型の木造建築物の建造が盛んに行われるようになると、その周辺の森林での伐採が盛んに行われるようになりました。特に、建築に用いられるヒノキ等の優良材や大仏の鋳造のための木炭が、大量に使われるようになりました。

乱伐により荒廃した田上山

乱伐により荒廃した田上山

奈良や京都に近く、良質なヒノキやスギの産地として知られた田上山(滋賀県)は、藤原京の遷都や桃山時代の築城、江戸時代の燃料の薪の確保など、繰り返される伐採によって、いわゆる「はげ山」となりました。また、畿内を中心に豊かな天然林はやせ地でも育つマツ林に変わるなど森林の劣化が進行しました。それが原因で洪水や土砂災害がたびたび起こるようになりました。

都市部に人口が集中するようになると、居住地の開発や食糧増産に向けた田畑の拡張のために、森林が伐り拓かれ、薪や木炭などの住民の生活燃料の確保のために木々が伐採され、過度の伐採による森林荒廃が起こりました。

こうした中、森林を保護するため、676年には、奈良県の飛鳥川上流の南淵山(みなぶちやま)や細川山(ほそかわやま)の森林伐採を禁じる命令(禁伐令)が天武天皇より出されました。このため、飛鳥地方の周辺では、次第に良質な木材を得ることができなくなり、湖南地域(滋賀県)、伊賀(三重県)、丹波(京都府)などの遠方から木材を運ぶようになりました。さらには、畿内地方だけでなく各地で寺院等の建築が進められるようになり、森林の大量伐採も各地に広がっていきました。


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燃料など

「燃やす」という木材の利用形態は、人類が火を使うようになって以来続いています。炊事や暖房用の薪や炭は、日常生活になくてはならない存在でした。奈良時代以降「山川藪沢(※)の利は公私これを共にする」といった命令がしばしば出されているようになりました。つまり、燃料や肥料用の草、落葉、薪などの採取の対象となった森林は、公的な利用と私的な利用とが分かれておらず、農民は比較的自由に利用することがでできるという意味です。

※山川藪沢(さんせんそうたく)とは、山・川・藪・沢に代表される未開発のままの土地のこと

しかし、当初は制限がなかったため、これらの採取が盛んに行われ、森林の荒廃も見られるようになりました。このため、例えば、集落単位で、採取に使うかごの大きさや採取できる期間、一戸当たりの採取することが許される人数を決めるなど、農民たちが森林の利用を自主的に制限することで、森林の利用と保全の両立を図ろうとする知恵が生まれてきました。 こうした自主的な利用制限の方法は「山仕法(やましほう)」と呼ばれ、このような村落による共同利用形態は「入会(いりあい)」と呼ばれました。

また、農具等に用いる鉄は、たたら製鉄によって精錬されていました。たたら製鉄は、砂鉄等の鉄鉱原料を木炭を用いて鉄に還元させる製鉄法です。 中国地方のように、たたら製鉄が盛んに行われていた地方では、大量の木炭が必要でした。 瀬戸内海沿岸等で行われた製塩や、各地で盛んになった陶磁器を製作する窯業においても、木材は燃料として欠かすことのできない存在でした。木材に匹敵する燃料が他にない中で、これらの産業のために木材を供給した森林では、その再生能力を超えた伐採が繰り返され、荒廃がみられるようになりました。

※ひときわ荒廃が目立っていた滋賀、愛知、岡山の3県は、「3大はげ山県」と呼ばれていました。


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近世都市の発達と木材利用

室町~安土桃山時代には、各種産業(製塩業、製鉄業、窯業など)の発達による人口の増加によって、地方でも城郭や都市の建設が盛んになり、燃料用や資材用の木材需要が増加するとともに、大量の木材が消費され、森林の劣化も全国に広がっていきました。

また、江戸時代には、人口の集中した江戸や大坂等の大都市では大火(※)が頻発するようになり、大火に伴う建築用の木材需要の増大から、全国各地で森林伐採が行われるようになりました。

※大火とは、火元から焼けどまり線までの直線距離が長さ15町(およそ1.6km)以上に達した火災のこと。江戸では、明暦3年から明治14年までの224年間に、大火が93件も繰り返し発生したとされています。

当時の木材運搬の方法は、河川による流送が中心であり、消費地までの水運の便に左右されたことから、木材を商品として生産できる「林業地」は自ずと限られました。やがて、海運航路が発達したこともあり、大都市での木材需要が伸びるにつれて、各地で森林の伐採が盛んに行われ、木材を取引することにより富を得る商人も現れました。


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江戸時代の木材利用

江戸時代、良質の木材資源に恵まれていた地域の中には、全山が伐採された「尽山(つきやま)」と呼ばれる森林が見られるようになり、森林を管理していた各藩は危機感を持つようになりました。このため、森林資源を保護することの重要さが認識されるようになり、あらかじめ定めた森林の伐採を禁じる「留山(とめやま)」制度や、「停止木(ちょうじぼく)」として定めた特定の樹種の伐採を禁止したり、制限したりする「留木(とめき)」制度が各地で定められました。

さらに、森林を一度に伐り尽くすのではなく、その再生能力に応じて持続的に木材等の生産物を得ていこうとする考え方も現れます。例えば、20年かけて育てた薪炭林を伐採して利用する場合、森林を20の区画に分け、ある年にはその1か所だけを伐ることとすれば、毎年伐採を続けても最初に伐採した箇所に戻るまでに20年間かかり、その箇所は既に20年育った森林になっています。このような方法で、安定的な伐採量を得られるように管理された森林は「番山(ばんやま)」、「順伐山(じゅんぎりやま)」などと呼ばれ、土佐藩、秋田藩等をはじめ、各地でみられるようになりました。このように、日本では木材を様々な場面に使う木の文化を育みながら、森林の利用と保全とのバランスをとり、森林の荒廃をくい止める努力が払われてきたのです。


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植林の歴史

植林に関する日本最古の記録は「日本書紀」にあります。そこには50種類以上もの樹木が記録されています。スサノオノミコトが「スギとクスノキは舟に、ヒノキは宮殿に、マキは棺に使いなさい。そのためには、たくさんの木の種をみんなで播こう。」と教えたとのこと。

万葉集に人の植えた杉が詠まれており、また、平安時代になると、まとまった植林が行われたという記録があります。室町時代から江戸時代には、吉野(奈良県)、尾鷲(三重県)、飫肥(宮崎県)などの各地で木材を得るための産業的な植林が本格的に始められるようになりました。

また、森林の果たす様々な役割が認識されるようになり、江戸時代には、河川に沿って、その氾濫に備える水害防備のための森林整備や、上流の土砂流出の防止のための植林、強風や砂がもたらす害を抑える海岸防砂林の造成等が各地で盛んに行われるようになりました。


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明治~近代化時代の木材利用

明治時代になると、日本は急速に西欧の文明を取り入れ、近代化を進めました。木材の利用についても、建築用をはじめ、工事の足場や杭、鉱山の坑木、電柱、鉄道の枕木、貨物の梱包、造船材料、桟橋等の各種装置・施設、紙に加工されるパルプの原料等、近代産業の発展に伴って様々な用途に木材が使われるようになりました。

この時期、産業用燃料はいまだ薪炭に頼っており、燃料材確保の必要性から森林伐採への圧力がいっそう強まりました。その結果として、明治中期は日本の森林が歴史上最も劣化・荒廃していた時期と推定されています。

明治後半には、それまで窯業や製塩、たたら製鉄などのための燃料材の採取が繰り返された地方に加え、 近代工業の発展に伴う製紙原料、工業燃料、炭鉱坑木等木材需要の増加から、 各地の森林荒廃が深刻になっていきました。明治後半には、過度の伐採の結果生じた荒野状の荒れ地が国土面積の1割程度を占めるようになりました。降雨時にはげ山から土砂が流出し、川を埋めるなどの災害が続発しました。また、森林の持つ水源かん養機能も失われ、水不足に見舞われるようになりました。

森林荒廃による災害を踏まえ、明治30年に「森林法」が制定される際には、水源のかん養や土砂崩壊防止などの目的のため伐採を制限する保安林の制度が発足しました。 また、明治32年から大正11年までの間は、 国有林(当時の農商務省所管)における無立木状態の荒廃地への植林等を積極的に進める 「国有林野特別経営事業」が行われました。 さらに、明治44年からは、森林を再生し荒廃地を復旧するための対策(後の治山事業のもととなる対策)が行われるようになり、大正4年からは、学術研究、貴重な動植物の保護、風致の維持等のために区域を定めて森林の伐採制限等を行う「保護林」制度が国有林に設けられました。

このように、森林の利用と保全とのバランスを取りながらその恩恵を末永く享受するためには、植林等により積極的に森林を回復し、再生させていく取組も本格的に必要となり、そのための努力が重ねられていきました。


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第2次世界大戦~高度経済成長期の木材利用

第2次世界大戦の時期には、鉄や石油等の資源に乏しい日本では、 国内で生産できる資源がことごとく徴用の対象とされ、 森林も次々に伐採されていきました。 また、航空機の燃料用としてクロマツから 松根油(しょうこんゆ)などが採取され、 海岸の松林も伐採の危機にさらされました。

戦後は、主要な都市が戦災を受け、食料も物資も欠乏する中で、復興のために大量の木材が必要となりました。森林は大量に伐採され、大きく荒廃しました。 このため、治山事業による崩壊地等の復旧、 造林事業による放置された伐採跡地への植林等が進められました。 また、緑化意識を高揚する全国植樹祭も始められました。 戦後、伐採跡地への植林が一応完了するには、昭和31年まで10年以上の年月を要しました。

昭和30年代には、本格的な経済の高度成長が進む中で、木材需要は建築用材、 パルプ用材を中心に急速に増大し、木材需給はひっ迫しました。 このため、木材の価格安定対策として、木材の増産や木材利用の合理化対策が進められたほか、 木材の輸入が段階的に自由化され、昭和39年には丸太、製材、合板、単板など、全ての品目が自由化されました。

森林資源の面では、将来の木材供給能力を高めるため、天然林や原野を対象として、 成長が速く経済的価値も見込めた針葉樹人工林(スギ、ヒノキ、カラマツなど)に転換する拡大造林施策が積極的に進められました。

それまで山村地域の農閑期の収入源として薪炭を供給した広葉樹林は、薪炭需要が急減する一方、広葉樹がパルプ用原料になったこともあり、 次々に人工林に転換されていきました。 それまで、人工造林が普及していなかった地域でも、拡大造林が活発に進められてきました。 また、森林所有者による造林が十分進まないところは、 地域の実情に応じ、地方公共団体により設立された造林(林業)公社と 林地の所有者との分収方式での植林も行われました。

結果として、昭和32年当時およそ570万haであった人工林面積は、昭和60年代には1000万haを超えました。そして、今、戦後に植林された人工林が成熟し、主伐に適した時期となりました。木を使うために伐採し、伐採したところに再び植林する世代交代の時期を迎えています。


〔参考文献・出典〕
林野庁ホームページ/太田猛彦「日本の森の変遷 - 荒廃から復活へ」/一般財団法人 日本木材総合情報センター「木ねっと」/コトバンク